2015年5月8日金曜日

情緒的な行政運営をいつまで続けるのか?

<船橋市議のブログより>

【その1】

行政運営というのは、私は合理的かつ論理的でなければならないと考えます。

 せっかく、新たに4年間の議席をいただき、さらには時間もいただきましたので、ゆっくりと「市政運営」について考えさせていただきたいと思います。

 私たち議員がそのチェック機能を果たしていくためには、そのため基準とでも言うのでしょうか?何を基にその事象、事案を考えなければならないのかというと、一番の拠り所は地方自治法になると思います。

 今回は、その地方自治法の1条から2条までだけを考えてみたいと思います。

 第一条  この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。

 下線を引きましたが、できてるかなあ~って思います。民主的にして能率的ですかね?健全な発達ってできてますかね?

 以前のブログでも書きましたが、「民主的」って?自分勝手な机上の理屈だけで、物事を進め、形だけのパブリックコメントを行い、民意は了としてる。と。

 議長在任中最後から2番目の議長報告がついこの間ありました。下記のような報告でした。

 私がなぜこの報告について気になるか?報告をいただいた際に、私の質問に明確にお答えいただけなかったからです。

 船橋市では、このような計画を策定するきには、一般的には会議体を設置し、素案を策定し、パブリックコメントにかけ、その結果を受け会議体で正式に「案」とし、市長の決裁を受け「計画」になります。

 今回、その最終形の「計画」に間違いがありました。

 私が瞬時に思ったのが、パブリックコメントにかけた文には間違いがなかったのか?素案には問題が無かったのか?です。

 なぜなら、一般的には、素案の段階で私たち議会への報告が行われます。そしてパブリックコメントが実施されて、最終的に決定されていきます。

 その流れは、これまた「私としては許し難い」のですが、「建前」では、修正しながら最終形に仕上げて行くように言います。が、しかし、一切修正しないと言っても過言ではありません。

 なぜなら、パブリックコメントも「市民の皆様に意見募集を行なったが特段大きな問題のあるご意見はありませんでした。」という市民の皆さんの意見募集を行なったというアリバイ作りのためのものであって、「パブリックコメント」本来の作業をしているわけではありません。

 その裏側は、市民の意見も聞こうともしない、そしてそれを拠り所にして、議会にも「パブコメの結果特段の意見もありませんでした。」という、議会突破の口実にも使います。それをまんま鵜呑みにする議会も議会ですが、事程左様に独善的かつ議会軽視の姿勢が根底にあるのです。

 話を戻しましょう。私への報告の際、「パブコメにかけた方は修正は無いの?」の質問に「チェックしていません」でした。

 前述したように、素案から最終形まで変更の意思無き素案ですからもし、最終形に間違いがあれば、最初から間違えていた事になるのです。

 ちょっとこの件は、長くなりそうなので今日はこの辺でパソコンを閉じます。

 続きも書いてまいりますのでご期待くださいませ。


 

【その2】

さて前回のブログは尻切れトンボのような感じで終わってしまいました。すみません。

 前回の結論を書きましょう。

 パブリックコメントの手続きについて何度も担当責任者に申し入れてきました。アリバイ作りのパブリックコメントは市民を愚弄していること以外の何物でもありませんから。

 あるものは、「攻(責)められた時に、パブコメでは特段の指摘なし。」と答えるためだけのものです。

 私はくどいほど言ってきました。そのためだけだったらやる必要は無い。と。

 政府のパブリックコメントの取扱をご覧ください。仮に目的が「アリバイ作り」だったとしましょう。しかし、きちんと体系立てて募集を行っています。

 私はバブリックコメントを実施するなら、実施するに価する対応をしなさい。ということです。形だけの、本当に市民を愚弄したやり方は、無用な期待を抱かせ、失望をさせ、行政への信頼を失い、延いては「無関心層」を増やすだけの話です。

 私は、それが地方自治法第1条の、

 地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。

 に合致しますか?ということです。

 「能率的な行政の確保」では無いと思うのです。まず、手間暇かけて、実施するパブリックコメント。これが「形だけ」のものであるのであれば、法の定めなどの特定の縛りが無い限り「無駄」にしか過ぎないのです。

 しかも、意見募集をしておきながら最初から「従う意思なし」です。むしろ「聞く耳持ちません」という姿勢です。

 そのことは、地方公共団体の健全な発達には全く資さないと思うのです。「お上の意識」そのものです。

 前回のブログで、スポーツ推進計画の訂正で、策定時の部課長ではないので「知らん」という態度。公務の継続性などどこ吹く風という感じです。だから、策定時のパブリックコメントなど知らんと。この無責任さ。これが一事が万事なのです。

 私は、この部課長を責めようというのではありません。

 それを許してしまう体質に問題提起なのです。議長在任時に、何度議長報告を受けたか?私は、その議長報告の9割近くがその決裁印を押した者の責任となるものが、ほぼこれまた9割。決裁印を押す者の誰か一人が真剣に印鑑を押しながら気づきさえすればこんな報告しなくてよかったという事案ばかり。ここでいう決裁印というのは「最終決裁印を押すこと」ではありません。最終的に決裁印を押す者は、「部下への信頼」があるのです。それをことごとく裏切る行為をしている「管理職者」の責任です。しっかりしていただきたいと思うのです。

 赤信号みんなで渡れば怖くない。的発想で、みんなでかばい合う体質。それが情緒的行政運営なのです。「印鑑を押す責任の重さ」をうすうす知っていながら、スルーをするずるさが私はたまらなく許せません。

 民間企業を引き合いに出すつもりはありません。しかし、これだけは言えます。民間企業ではあり得ない無責任さ。印鑑を見れば見るほど、その職員の無責任さの証にしか見えないのは私だけなのでしょうか?


 

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