<三鷹市議のブログより>
Twitterはもはや私の生活には欠かせないものになっています。未だ顔を合わせたことがない人と楽しく会話したり、また特定分野の識者の見解を学んだり…。Facebookは友達申請という壁があるので、どうしても以前からの知人中心となってしまいますが、Twitterにはそれがありません。誰をフォローしようが自由です。
学びたいこと、会話したい人を選んで、好きなことを好きなだけ吸収できる、こんな素晴らしい道具はないとすら思えます。
しかし、一旦Twitterを開くと、様々な言い争いが嫌でも目に入ってきます。これらの言い争いは、実にどうでも良いレベルのものが多く、しかも発端を調べてみると、必ずと言って良いほど、どちらかが仕掛けています。
自分のTweetに批判してきた人に「なんだと!」と怒って反論するケースもあれば、他人のTweetをわざわざ引用して見解を加え、相手の反応を待っているとしか思えないものまで、まぁ色々見えてきます。
こういうのはエネルギーを消耗するので、なるだけ目にしないように心がけているのですが、それでも目に飛び込んでくるのがあり、これはもうしょうがないですね。Retweetという機能がある以上、自分がフォローしている方がRetweetすれば目に入ってきます。
これらの言い争いは、よくよく見ると、言葉尻を捉えて拡大するケースや、最初から難癖をつけているとしか思えないものまでいろんなのがありますが、共通点は「とにかくいがみ合っている」ということに尽きると思います。
私は不思議なのです。
顔と顔を合わせて話をしてる場合ですら、お互い理解しあうことは稀でどなり合うことすらあるのに、文字だけで理解しあうなんて土台最初から無理じゃんと思えるのです。顔と顔を合わせている場合は、(音声ではありますが)文字情報と相手の顔という複数の要素があるのに、ネットだと文字だけなので、理解しあえるわけがないのです。
にもかかわらず様々な言い争いをしているわけですから、これはもう「理解し合おう」という土壌そのものが多分最初からないんだろうなと思えてなりません。
今一度、文字情報だけで相手に全てを伝えるのは限界があることを、私は改めて考え直しているところです。
なぜこういうことを書いてきたかというと、実はネット選挙活用について改めて考えてみたのです。
かつてネット選挙の限界を経験し、私は「日本に真の民主主義はない」という仮説を立てました。
「日本は真の民主主義の国ではない」
また、前回はネット選挙活用だけで選挙に臨むという無謀なことをやってしまったわけですが、どういう戦い方をしたかは、こちらをご覧ください。
「2015三鷹市議会議員選挙」
(全部で35回のエントリー)
もうひとつ、民主主義云々以前に、そもそも文字だけで全てを伝えることができるか?と、Twitterの中の言い争いを見ながら、考え込んでしまったのです。
もう結論は出たようなものですね。
そうです。無理なのです。
ところが、政治家の方は未だにネット選挙活用とか言っているわけです。私は自身で経験して、ネット選挙の限界を体験しましたが、改めて政治家の皆さんに問いかけたいのです。
「文字だけで伝わると思います?」
ネット選挙を活用することは、もちろん大切なことです。ある情報につき有権者が知りたい場合、政治家としてはなるだけ答えてあげることが必要であり、その意味ではブログであろうがホームページであろうが、要は辞書のような役割を果たすことは現実にあり、この側面はやはり重視するべきでしょう。有権者の知る自由に応える義務すらあると言えます。
一方、政治家側としては、ネット選挙活用をどうしても選挙の当落に結びつけたくなるでしょうね。現に私がそうでした。
そもそも、ネットの情報というものは、検索されないと話になりません。その意味で調べる側の(有権者の)能動的な行動が前提になります。
しかも、ある情報にたどり着いた時、顔と顔を合わせているわけではない以上、Twitter上の言い争いからわかるように、全てを伝えることはできないと言って良いでしょう。
このように考えると、ネット選挙というものは、実はそれで全て大丈夫というものではなく、あればあったに越したことはないというレベルのものであり、それに過剰な期待をしてはならず、そこから広がるのは善意ではなく悪意から発せられる情報の可能性すらあるという、なんと申しましょうか、諸刃の剣のようなものがあると思えるのです。
Twitterを開くたびに言い争いが見えてきて、文字だけじゃ理解し合えんなぁと頭が向かって、ネット選挙という文字が浮かんで、思わず、「あっ!」と気づいてしまったわけです。
http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-12094493714.html
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