政治家をお願いの「対象」と捉えることをもう少し深めてみましょう。
様々な住民相談があります。私は何の力もないただの無所属おじさんですので、私のところに住民相談に来る方はあまりいません。経験が少ない中で印象的な出来事を1つ紹介しましょう。
その相談内容は伏せておきますが、私はその方にお会いして話をする際に言われた、次の一言を決して忘れません。
「半田さんに連絡する時、なかなか勇気が出ませんでした」
その時、私は、議員と住民との距離感というものを考えました。なんとなんと深い溝があるのだろうと。
普段から議員に接する機会が多い方は、こんな風に感じることはないのかもしれないですが、議員との接点がない方には、議員に連絡するのは相当高いハードルがあるのです。私は今でも住民相談を受ける際には、必ずこの時の出来事を思い出し、どうすれば相手に距離感を感じさせることを減らせるか?を考えるようにしています。
一方、議員さんの方はどうでしょうか。人それぞれですが、いざ選挙!ともなれば住民にお願いをするわけですよね。頑張ります!私の名を書いてください!みたいな…。
その時、皆さんの側に立って頑張ります!とか、先ほど書いた庶民性を売りにするとか、いろいろあるんでしょうけど、受け取り側である住民からすると、普段は遠い遠い存在が選挙のたびにお願いに来るとなるんじゃないですかね?
つまり、政治家はあくまでお願いの「対象」であり、私の代わりに働くというのではない…先ほど書いた庄屋と分析する発想にもつながってきますね。
「対象」とは、自分ではないことを指します。自分がいて、庄屋がいる…当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、これは大きな意味を持ちます。極端な表現ですが、議員村と住民村の2つがあり、普段はなかなか交流がないが、選挙の時は議員村から交流を求めたがるということすら考えられるのです。
ここから1つの仮説を組み立てることができますね。
「日本は民主主義の国ではない」という考え方です。
民主主義はよく「治者と被治者の自同性」という言葉で表現されますよね。ここまでお読みいただければ、「自同」ではないなと思うのも無理はないですね。お願いをする「対象」であり、庄屋であり、私たちと違う世界にいる…住民側はそのように捉えているような気がしてならないのです。深層心理といいますか、心のしかも奥深く意識しないところで…。
こう考えると、巷にある「あの議員は選挙の時だけお願いに来る」といった批判も理解できますね。良くも悪くもこれはいわば日本型とでも言えばいいのでしょうか、要するに「型」の1つではないかと考えているのです。
議員村、住民村という区別…要するに2つの軸になってしまっているのです。この2つの軸という考えは、別の側面からも考えられます。これは次回に書きましょう。
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