2015年6月9日火曜日

政治家とは要するに庄屋である

<三鷹市議のブログより>

では、日本において政治家とは、有権者にとってどのような存在なのでしょうか?

結論を先に書きますと、私は庄屋そのものであると考えています。

庄屋とは、いわゆる藩政時代のとりまとめ役ですね。厳密には村役人の1つです。農民をとりまとめ、何か困りごとがあれば、お代官様に願い出るわけです。昔は庄屋の選出方法は世襲制などありましたが、今は形式的には民主主義の国である以上、選挙で選ぶということになりますね。

皆さん、お住まいの地域の庄屋さんは誰ですか?そこの地域の議員さんの顔ぶれを眺めてみてください。できれば、親世代のケースも見ておきたいですね。

どうですか?意外に固定されているなと感じるのではないでしょうか?

巷には、二世議員、三世議員を批判する向きがありますが、現に各地域で世襲制が残っていると見ることすらできますね。もちろん選挙を経るわけですが、それにしても…と思うのではないでしょうか。

さらに、もう少し分析をしてみましょう。お住いの地域の政党ごとの票を比較してみてください。1つの例えとして、三鷹市議会の場合をあげてみましょう。自民系の票、民主党系の票、公明党の票、共産党の票とあり、そして無所属の票となります。それぞれを村の中の派閥と捉えてみたらどうでしょうか?いわば、三鷹村自民派、三鷹村民主派、三鷹村公明派…といった具合です。つまり、1つの村の派閥ごとに、体力に応じた庄屋数を選びだすわけです。

よく庄屋と例えると、庄屋と同列にするなんて失礼だ!とわけわからんことを言う人がいますが、それこそ庄屋さんに失礼ですね。私は分析の方法としての例えで表現しているわけですし。

さらに、派閥ごとに地域を分割するというわけです。A派の甲地域は佐藤さん、乙地域は田中さんといった具合ですね。あぁ、言われてみれば…と思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。つまり、この側面からも、選挙とは所詮は構造が全てという論証が可能になってくるのです。

書名は伏せておきますが、ある著名なNPO経営者が書いた本の中に、庶民派が売りだった新人議員さんに話をしに行った時の様子が書かれています。その先生は、椅子にドカっと腰をおろすと「んで、何をしてほしいの?」と胸をのけぞらせて言ったそうです。

このエピソードは政治家は庄屋であるということを端的に表していますね。困りごとがあれば、百姓は庄屋に相談に行く、庄屋は「よしよしわかった」となる、庄屋はお代官様にさらに相談に行く…

あれ?この風景、どこかで見たことがありませんか?そうです。現代の政治もレベルは変わらないのです。政治家は、お願い事をする時の「対象」に過ぎないのです。

また、その庄屋が何かを決定するわけではなく、あくまで「中継ぎ」であることも大きなポイントですね。

住民が困りごとを議員に相談する、議員は多数派もしくは地方の場合首長にかけあう…いかがでしょうか。見事なまでのピラミッド構造ですね。政治家が庄屋だと言う私の分析は、この中継ぎ機能を正面から捉えるのがポイントなのです。

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