2017年1月16日月曜日

原点に返ろう!! 初選挙のころ(2003年)

<松坂市議のブログより>


2003年(平成15年)4月22日付、夕刊三重
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初めての選挙を迎えた2003年(平成15年)。いまから14年前のこと、わたし44歳でした。
当時の新聞のスクラップブックを見ると、初々しい?自分がおります。
地元紙「夕刊三重」が「’03市議選 いち押し公約」というのをやっており、一人ひとりの立候補者のそれが掲載されています。
新聞社から記入を求められるものは、たいがい、決められた字数に、いかに自分の考え方を押し込むかということになります。
わたしは、掲載記事の通り、次の通り書いています。

「商店街や歴史的町並み、よいほの森や石垣など貴重な文化が残る街は市民共有の財産。『松阪らしさ』がぎっしり詰まった街に住む人が生き生き暮らし、まちの中の元気回復につながる政策を市民参加で創造したい。」

公約というより、メッセージですね。
ほんとうは、「市民共有の財産」を保全しつつ、みたいな言葉がほしかったところですが、うっかりしていたようです。

議員として、この原点を大切にしたいと思います。

しかし、その後、江戸時代の武家長屋「御城番」と豪商の邸宅「長谷川邸」は国重文になったし、松坂城跡は国史跡になり、訪れる人、もてなす人が増え、文化財を活用するまちづくりが、まちの中心になっています。

まちづくりへの市民参加は増えました。
その一方で、市民参加の政策形成については、下村猛市長時代に検討が始まり、山中光茂市長当時に議案提出た自治基本条例(まちづくり基本条例)が議会多数の反対で否決となってとん挫しました。

いま、政策づくりという点では、「市民主導・共治・公開型」(野呂・下村・山中時代)から「官主導・統治・非公開(秘密主義)型」の市政(奥田清晴市長時代、竹上真人現市長)へ逆流する現象が起きています。

わたしが議員になった平成15年(2003年)は野呂市長が知事選出馬のため辞任、下村猛市長に交代(無投票)した時期でした。
下村市長も、市民参加の理念に理解を寄せるなど、「市民主導・共治・公開型」の系譜に属すると考えますが、合併後の平成18年(2006年)以降進めようとした政策の進め方には強引・密室型が目立つようになりました。

14年議員をさせていただいておりますと、自治の系譜を押さえた議員活動を展開することができます。

http://diary.e-yazawa.her.jp/?eid=877428

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