2015年10月31日土曜日

地方自治は民主主義の学校ではあり得ない

<三鷹市議のブログより>

今年の初めの日経の記事をまずはご紹介しましょう。ネット選挙の浸透まだまだ 衆院選候補者情報「見た」16%

国レベルの選挙だと、新聞だのテレビだの目にする機会は多くなります。当然関心も出てきます。
地方レベルの選挙、特に市町村レベルだと、新聞だのテレビだの目にする機会はまずありません。当然関心を持ちようがありません。

国レベルの争点だと自分の身に降りかかるケースも考えられます。税金のあり方などが典型ですね。自分のお尻に火がつく可能性に直結するわけですから、当然関心も出てきます。
地方レベルの選挙、特に市町村レベルだと自分の身に降りかかることって、よくよく考えるとあまりありませんね。最初に直面するのは、いわゆる保育園問題でしょうね。我が子が待機児童になりかねない、いったいどうなっとるんだ?などなど、自分の身に降りかかることから政治の関心を持ち始めるのは無理もないことです。自分に関係のないところで選挙が行われているというのが、多くの地方レベルの選挙の実態ではないでしょうか。

若干それますが、若者世代の投票率低下の問題がよく言われますが、考えてみますと、自分のお尻に火がつかない以上、わざわざ貴重な休みの日に投票に行く必要はないのです。いわば自由主義的観点と申しましょうか、「ほっといてくれよ」の発想からだと、「私に関係ないから興味ねぇわ」というのは、当然の結論とすら言えます。

つまり、そもそも、選挙は関心がある人しか行かないのです。

さらに、関心がある人は、それなりに調べようとする人が出てきます。ここでネット選挙の意味が初めて出てきます。
ここでわかることは、ネット選挙の相手方は必然的に選挙に対し「能動的」な方と言え、その意味で入口から限定された人たちを相手にしているに過ぎないのです。

私は、今年の春の三鷹市議選で立候補し、完全ネット選挙で臨みました。選挙カーなし、選挙事務所なし、電話がけなし、それどころが街頭宣伝すら一切なし…その代わり選挙期間中は情報発信を頑張り、様々な論点を用意し、判断材料をできるだけ揃え…
始める前は民主主義の意味を重んじていました。民主主義の重要性を考えれば、みんなある程度は投票に関心があるはずであり、様々調査するだろうと。
結果は、大幅に票を減らしてなんとか下位で当選という有様でした。
この経験から私は多くのことを学びました。次のブログ記事にまとめているので、よろしければご覧ください。
日本は真の民主主義の国ではない

民主主義的観点を重視すると、決して喜ばしいことではありません。低い投票率で、自治体の運命を左右することなど、決してあってはならないことです。
しかし、人は利害で動くものなのです。お尻に火がついたら人は動きます。火がつかない限り人は動かないのです。

これが良いか悪いかという価値判断は、それは悪いに決まっているのですが、ポイントは「選挙は大切だよ、だから投票に行こう」という掛け声は、届く人には届くのでしょうが、すべての人に届くわけではなく、また届いた人も自分に関係なければ動かないだろうという現象を、ありのままに受け入れることにあると考えます。

先ほど書いた私の実験ですが、私はどうしてもこれをやってみたかったのです。今冷静に振り返るととんでもないことをやってしまったなぁと反省することしきりですが(笑)、私は民主主義は重要なんだよという価値観がすべての人に共有されるわけではないということを、身をもって体感したかったのかもしれません。

どのようにしたら選挙に通るかと言われれば、今は間違いなく露出した者勝ちと答えるでしょう。それが現実だからです。何度も駅頭に立ち、何度も大きな音量で選挙カーを走らせ、否が応でも有権者の脳裏に名前を焼き付ける、そのことによって初めて先ほど書いた「能動的」な層の脳にインプットされ、スタートラインに立てるわけです。

冒頭に紹介した日経の記事ですが、考えてみますとより身近に感じる国政選挙でさえ16%という状況ですから、自治体レベルではもっと低くて当たり前ですね。

まとめに入りますが、ネットというものは、有権者が「能動的に」動くからこそ意味がある道具であり、ではどうすれば有権者が「能動的に」なる機会を増やすか?が問題になってくるということです。ここから情報開放の考えが重要になってくるのです。

「地方自治は民主主義の学校である」よく教科書的にこう言われますが、現実はこの正反対であり、地方自治は民主主義の学校ではありえないということになります。

http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-12088627086.html

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