<川崎市民のブログより>
「議会改革は道半ば。市民のための議会であるために。」というブログ記事(白井トオル・小金井市議会議員)のタイトルに違和感を持った。記事の内容は同市議会の協議内容の経過報告で特段の感想はない。それにしてもタイトルの後半部に何の意味を含めているのか、と気になった。
川崎市議会を語る会のツイッターで知ったので、以下をリツイートした。
「何故、市民のためなのか?何故、議会と議員が自治体運営を良くしていくためと言えないのか??甘い言葉は甘い意識の反映なのか ???」。
すると、「議会活動の究極の目的は、より良い自治体運営を通して市民福祉の増進であると認識しているためです。「自治体運営をより良くする」というのはあくまで手段ですよね。」との回答があった。
成る程、と合点がいった!
“究極の目的”と大仰な言葉を使い、それが“福祉の増進”という決まり文句で収まっている。だからブログ記事のタイトルにも“市民のための議会”という改革を標榜する議員たちの、ある種の、決まり文句を使うことになる。
これを読んで想い起こしたのは北海道栗山町議会のことだ。
議会改革を始め、それを日本初の議会基本条例に結実させた。その条例は総合計画を自治法第96条第2項の議決事件としている。
更にその条例に基づいて、2007年度における総合計画の審議において、行政側案に対し、対案として総合計画議会案を作成、2008年2月に臨時会にて総合計画を修正可決したのだ。
その後、今日に至るまで、議会基本条例及び議会改革において、栗山町議会を乗り越える議会は現れていない。これは福島浩彦教授が指摘する処である。
『「市民による川崎市議会白書2011-2014」基本構想140325』
今や栗山町の余りにも突き出した業績に刺激され、議会改革を掲げる議会はタケノコの様に増えた。しかし、その中味は薄まり、議会改革は“議会改革ゴッコ”になっているかのようだ。川崎市議会では議会の目標では無く、議会局の目標に議会改革が掲げられているとの話も聞こえてくる。議会改革もそろそろ終焉に向かうように感じる。
筆者自身としては、先の統一地方選挙の結果とその前後の雰囲気から何となく感じていたことが、明確になってきたとの思いである。結局、住民の議会に対する見方は変わっていない。松阪市議会に対する住民のリコール署名運動はその象徴的事象にも見える。
川崎市の場合も、市議会に対する市民の見方は似たようなものだ。
前々回の市長選の際、自民、民主は独自候補を立てたが、阿部市長に敗れた。前回は自公民で阿部後継の秀嶋氏を推したが、無党派で孤軍奮闘した福田現市長に秀嶋氏は破れ去った。議会各会派の推薦は市民に対する影響は、極めて限定的であることに変わりないのだ。
そこで議員心理としては、支持者を固めると共に、一般住民に対しては、腫れ物を扱うように、「住民の皆様にお役に立つ」「住民のための議員・議会」とのキャッチコピーに縋るようになる。特に所謂、地盤を持たない改革派議員も例外では無い。
そうであっても、自らを主張する方法は工夫の余地はあり、先にも記事にしたように、議会改革を掲げて上位当選した若手議員、重冨氏(無所属)の様な方もいる。駅頭においても同じ話を続け、少しずつ支持者を獲得していったのだ。
『自共伸長、民維衰退、25歳の無所属新人が大健闘!~川崎市議会議員選挙150416』
http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/4d653a24f70e1062b74412e25f095d4c
問題は「議会活動の究極の目的は市民福祉の増進」などと軽々しく言わないことだ。マックス・ウェーバーに倣って言えば、「究極の目的、そんなのは単なるおしゃべりに過ぎない」のであって、市民福祉の増進も公的業務に携わる人は誰でも究極の目的になる。即ち、自己の限定性も認識せず、何も考えずに、話をしていることを暴露しているに過ぎない。
議会改革の原点は議事内容を質的に向上させることにある。例えば、議会が総力を挙げて「総合計画」に取り組むとすれば、組織形態から調査体制に至るまで改革すべき事項の山となるだろう。それにも係わらず、と言える人たちこそ改革の旗手としての資格がある。
川崎市議会を語る会のツイッターで知ったので、以下をリツイートした。
「何故、市民のためなのか?何故、議会と議員が自治体運営を良くしていくためと言えないのか??甘い言葉は甘い意識の反映なのか ???」。
すると、「議会活動の究極の目的は、より良い自治体運営を通して市民福祉の増進であると認識しているためです。「自治体運営をより良くする」というのはあくまで手段ですよね。」との回答があった。
成る程、と合点がいった!
“究極の目的”と大仰な言葉を使い、それが“福祉の増進”という決まり文句で収まっている。だからブログ記事のタイトルにも“市民のための議会”という改革を標榜する議員たちの、ある種の、決まり文句を使うことになる。
これを読んで想い起こしたのは北海道栗山町議会のことだ。
議会改革を始め、それを日本初の議会基本条例に結実させた。その条例は総合計画を自治法第96条第2項の議決事件としている。
更にその条例に基づいて、2007年度における総合計画の審議において、行政側案に対し、対案として総合計画議会案を作成、2008年2月に臨時会にて総合計画を修正可決したのだ。
その後、今日に至るまで、議会基本条例及び議会改革において、栗山町議会を乗り越える議会は現れていない。これは福島浩彦教授が指摘する処である。
『「市民による川崎市議会白書2011-2014」基本構想140325』
今や栗山町の余りにも突き出した業績に刺激され、議会改革を掲げる議会はタケノコの様に増えた。しかし、その中味は薄まり、議会改革は“議会改革ゴッコ”になっているかのようだ。川崎市議会では議会の目標では無く、議会局の目標に議会改革が掲げられているとの話も聞こえてくる。議会改革もそろそろ終焉に向かうように感じる。
筆者自身としては、先の統一地方選挙の結果とその前後の雰囲気から何となく感じていたことが、明確になってきたとの思いである。結局、住民の議会に対する見方は変わっていない。松阪市議会に対する住民のリコール署名運動はその象徴的事象にも見える。
川崎市の場合も、市議会に対する市民の見方は似たようなものだ。
前々回の市長選の際、自民、民主は独自候補を立てたが、阿部市長に敗れた。前回は自公民で阿部後継の秀嶋氏を推したが、無党派で孤軍奮闘した福田現市長に秀嶋氏は破れ去った。議会各会派の推薦は市民に対する影響は、極めて限定的であることに変わりないのだ。
そこで議員心理としては、支持者を固めると共に、一般住民に対しては、腫れ物を扱うように、「住民の皆様にお役に立つ」「住民のための議員・議会」とのキャッチコピーに縋るようになる。特に所謂、地盤を持たない改革派議員も例外では無い。
そうであっても、自らを主張する方法は工夫の余地はあり、先にも記事にしたように、議会改革を掲げて上位当選した若手議員、重冨氏(無所属)の様な方もいる。駅頭においても同じ話を続け、少しずつ支持者を獲得していったのだ。
『自共伸長、民維衰退、25歳の無所属新人が大健闘!~川崎市議会議員選挙150416』
http://blog.goo.ne.jp/goalhunter_1948/e/4d653a24f70e1062b74412e25f095d4c
問題は「議会活動の究極の目的は市民福祉の増進」などと軽々しく言わないことだ。マックス・ウェーバーに倣って言えば、「究極の目的、そんなのは単なるおしゃべりに過ぎない」のであって、市民福祉の増進も公的業務に携わる人は誰でも究極の目的になる。即ち、自己の限定性も認識せず、何も考えずに、話をしていることを暴露しているに過ぎない。
議会改革の原点は議事内容を質的に向上させることにある。例えば、議会が総力を挙げて「総合計画」に取り組むとすれば、組織形態から調査体制に至るまで改革すべき事項の山となるだろう。それにも係わらず、と言える人たちこそ改革の旗手としての資格がある。
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