Q なんで議員になったん?
A 地方を取材する新聞記者(夕刊三重、読売新聞)を20年していて、いろいろな地域の役所や議会を取材しました。その中で、違う役所に行くと全部それぞれの持ち味があって役所の空気は違っていて面白いのに、議会はどこへ行っても同じぐらいつまらないと感じていました。これは松阪市議会でしたが、「なんでこんなの黙って通す(可決する)んや」と怒りたくなることがあって。それは20代のときでしたが、そのとき、本気で出ようかと思ったことがありました。
Q だいぶ長いこと議員しとるけど、海住さんが議員になって議会は変わったん?
A 実際に議員になったのは44歳のときでそれから14年目です。議員になって初めて開かれた議会(初議会)の初日に、他の皆さんが「異議なし!」と言ったとき、「異議ありっ!」と声をあげました。わたしの議会での第一声は「異議あり」です。新人がいきなりこれを言うのはしんどいもんです。完全に空気に逆らうんですから。「異議あり」と言うと、その場でその理由を発言できます。「みんな賛成するのに何でお前だけ逆らうんや」ということで、長老の議員からはモウレツなヤジが飛びました。すべてはそこから。最初から迎合していたら、議員としては一生迎合です。議会でまず変えたのは、ルールを守らせることでした。「ルールを守れ」と言っているのだからだれも文句は言えません。
Q 議会はルールを破っていたということ?
A そう、“常習”(笑い)。議員が守るべきルールのキホン中の「キ」は地方自治法という法律と会議規則。地方自治法に書かれていることの趣旨が100%生かされたり、書いてあることをすべて実践していればいい議会になります。それができれば「議会改革」は要らないくらい。逆に言えば、地方自治法の趣旨に沿った議会運営となるようにすることが「議会改革」かもしれません。たとえば、会議規則には、議案に対して質疑があるときは質疑を行うと書いてあるのに、当初予算案の質疑は「会派代表質疑」で行っているので当時、会派に入っていなかったわたしは質問ができないと言われた。それでそれは違法であるからと申入れ書を議長に出し、翌年からは認めてもらいました。
Q 議会は変わったということ?
A 一新人議員であったわたしがいきなり議長に申入れ書を出し、新聞にも載って、議会運営委員会(議運)の委員長さん(議会内では議長以上に実権のある役職)もカンカンだったのですけど、その委員長は、夜、わざわざ電話をかけてきてくれ、1時間ぐらいお話をしました。すると、「海住さんの言うこともわかる」と言って、さっそく議運に諮ってくれました。抵抗する議員もいましたけど、話をまとめてもらいました。その方はもう引退されましたけど、いまでも敬意を表しています。
Q 実際、議会のどんなとこを変えたんさ?
A わたしは議員になって14年のうち、最初から13年間は「無会派」といって、会派に入らずに議員活動をしていましたが、なにかにつけて「松阪市議会は『会派制をとっている』」という壁にぶつかりました。会派に入らないと一般質問の質問時間が短い、当初予算案の代表質疑ができない、特別委員会といって重要テーマごとに設置する委員会に入れない、議会運営委員会には入れないし発言もできない、密室の非公式協議の場だった会派代表者会議には傍聴は認められても発言はできない等々。議員活動をしていくうえで妨げになることばかりです。まず、これらの弊害を取り除くことでした。いまではこうした弊害はほとんどなくなりました。言い続けて10年です。
Q それって海住さんが変えたん?
A 議会は、多数の議員が同意しないと変わりません。最初に自分からここをこう変えようと提案し、議論し、納得の得られたところは変わる。しかし、まず、言わないことには変わりません。はじめのうちは、一つひとつ、改善を求めても、「松阪市議会は“会派制”をとっている。会派に入るか、会派を作れ」と言われ続けました。議員は選挙で選ばれている法的存在だけれど、会派なんてものは法的には政務調査費(現在は政務活動費)の受け皿として平成14年に地方自治法に載っただけで、それ以上のものではない。松阪市議会の会議規則にも「会派制」などという言葉は存在しないし、当時、「活動を同じくする議員の集まり」以上には規定もありませんでした。そんな実体のない“会派制”のために、議員に与えられた質疑権や自由な議員活動が妨げられてなるものかという闘いをしました。
Q でも、よく変わりましたねえ。
A 平成18年(2006年)に北海道栗山町議会が全国初の議会基本条例をつくり、議会改革の機運が生まれました。その年、三重県議会が都道府県議会としては最初に続きました。松阪市議会ではそれから4年後でしたが、議会全体の中から9人を選んで議会改革検討委員会が作られ、わたしもそこに入れることできました。
Q そんな検討委員会があったんですか。
A ぶっちゃけた話、当時、山中光茂市長になり、議会の悪口を言いたい放題言ったため、議会もなんとかしようと議長、副議長が中心になって設置を決めたのです。検討委員会では、まず9人の委員全員が改革検討項目を持ち寄ることになり、他の委員はそれぞれの所属会派から、わたしは自分自身ずっと考えていたことを64項目提出しました。集まったものは全部で127項目でしたが、そのうち半分はわたしが出したものでした。一つひとつの項目の検討にほんとうに長い時間をかけました。その結実として議会基本条例が出来るには2年半かかりましたが、実現できるものは先に実現するという方針で、たとえば、いずれも海住提案ですが、一般質問の一問一答式や議長選の立会演説と質疑応答とか、議場のモニター画面とテレビ中継中の画面に写真や図表などの資料を映すカメラの導入などが、少しずつ実現していきました。
http://blog.livedoor.jp/kaiju_matsusaka/archives/52274225.html
A 地方を取材する新聞記者(夕刊三重、読売新聞)を20年していて、いろいろな地域の役所や議会を取材しました。その中で、違う役所に行くと全部それぞれの持ち味があって役所の空気は違っていて面白いのに、議会はどこへ行っても同じぐらいつまらないと感じていました。これは松阪市議会でしたが、「なんでこんなの黙って通す(可決する)んや」と怒りたくなることがあって。それは20代のときでしたが、そのとき、本気で出ようかと思ったことがありました。
Q だいぶ長いこと議員しとるけど、海住さんが議員になって議会は変わったん?
A 実際に議員になったのは44歳のときでそれから14年目です。議員になって初めて開かれた議会(初議会)の初日に、他の皆さんが「異議なし!」と言ったとき、「異議ありっ!」と声をあげました。わたしの議会での第一声は「異議あり」です。新人がいきなりこれを言うのはしんどいもんです。完全に空気に逆らうんですから。「異議あり」と言うと、その場でその理由を発言できます。「みんな賛成するのに何でお前だけ逆らうんや」ということで、長老の議員からはモウレツなヤジが飛びました。すべてはそこから。最初から迎合していたら、議員としては一生迎合です。議会でまず変えたのは、ルールを守らせることでした。「ルールを守れ」と言っているのだからだれも文句は言えません。
Q 議会はルールを破っていたということ?
A そう、“常習”(笑い)。議員が守るべきルールのキホン中の「キ」は地方自治法という法律と会議規則。地方自治法に書かれていることの趣旨が100%生かされたり、書いてあることをすべて実践していればいい議会になります。それができれば「議会改革」は要らないくらい。逆に言えば、地方自治法の趣旨に沿った議会運営となるようにすることが「議会改革」かもしれません。たとえば、会議規則には、議案に対して質疑があるときは質疑を行うと書いてあるのに、当初予算案の質疑は「会派代表質疑」で行っているので当時、会派に入っていなかったわたしは質問ができないと言われた。それでそれは違法であるからと申入れ書を議長に出し、翌年からは認めてもらいました。
Q 議会は変わったということ?
A 一新人議員であったわたしがいきなり議長に申入れ書を出し、新聞にも載って、議会運営委員会(議運)の委員長さん(議会内では議長以上に実権のある役職)もカンカンだったのですけど、その委員長は、夜、わざわざ電話をかけてきてくれ、1時間ぐらいお話をしました。すると、「海住さんの言うこともわかる」と言って、さっそく議運に諮ってくれました。抵抗する議員もいましたけど、話をまとめてもらいました。その方はもう引退されましたけど、いまでも敬意を表しています。
Q 実際、議会のどんなとこを変えたんさ?
A わたしは議員になって14年のうち、最初から13年間は「無会派」といって、会派に入らずに議員活動をしていましたが、なにかにつけて「松阪市議会は『会派制をとっている』」という壁にぶつかりました。会派に入らないと一般質問の質問時間が短い、当初予算案の代表質疑ができない、特別委員会といって重要テーマごとに設置する委員会に入れない、議会運営委員会には入れないし発言もできない、密室の非公式協議の場だった会派代表者会議には傍聴は認められても発言はできない等々。議員活動をしていくうえで妨げになることばかりです。まず、これらの弊害を取り除くことでした。いまではこうした弊害はほとんどなくなりました。言い続けて10年です。
Q それって海住さんが変えたん?
A 議会は、多数の議員が同意しないと変わりません。最初に自分からここをこう変えようと提案し、議論し、納得の得られたところは変わる。しかし、まず、言わないことには変わりません。はじめのうちは、一つひとつ、改善を求めても、「松阪市議会は“会派制”をとっている。会派に入るか、会派を作れ」と言われ続けました。議員は選挙で選ばれている法的存在だけれど、会派なんてものは法的には政務調査費(現在は政務活動費)の受け皿として平成14年に地方自治法に載っただけで、それ以上のものではない。松阪市議会の会議規則にも「会派制」などという言葉は存在しないし、当時、「活動を同じくする議員の集まり」以上には規定もありませんでした。そんな実体のない“会派制”のために、議員に与えられた質疑権や自由な議員活動が妨げられてなるものかという闘いをしました。
Q でも、よく変わりましたねえ。
A 平成18年(2006年)に北海道栗山町議会が全国初の議会基本条例をつくり、議会改革の機運が生まれました。その年、三重県議会が都道府県議会としては最初に続きました。松阪市議会ではそれから4年後でしたが、議会全体の中から9人を選んで議会改革検討委員会が作られ、わたしもそこに入れることできました。
Q そんな検討委員会があったんですか。
A ぶっちゃけた話、当時、山中光茂市長になり、議会の悪口を言いたい放題言ったため、議会もなんとかしようと議長、副議長が中心になって設置を決めたのです。検討委員会では、まず9人の委員全員が改革検討項目を持ち寄ることになり、他の委員はそれぞれの所属会派から、わたしは自分自身ずっと考えていたことを64項目提出しました。集まったものは全部で127項目でしたが、そのうち半分はわたしが出したものでした。一つひとつの項目の検討にほんとうに長い時間をかけました。その結実として議会基本条例が出来るには2年半かかりましたが、実現できるものは先に実現するという方針で、たとえば、いずれも海住提案ですが、一般質問の一問一答式や議長選の立会演説と質疑応答とか、議場のモニター画面とテレビ中継中の画面に写真や図表などの資料を映すカメラの導入などが、少しずつ実現していきました。
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