2016年12月26日月曜日

議会に必要な熟議とは?-朝日新聞出版「政策会議と討論なき国会」から引用

<所沢市民のブログより>


12/19 石堂智士
 
 1215日朝刊「朝日新聞」の一面を飾る大見出し「カジノ法成立へ」、その横に小見出し「衆院採決は未明に」。この記事は、一面の右半分を占めるが、その中に二つの小見出し「年金抑制法も成立」と「熟議放棄 国民不在の極み」とある。
 さて、熟議とは何だろうか?最近、ときどき目にするようになった言葉だ。実は、いつもよくいく図書館でたまたま借りた新刊本を読んで、日本の国会のあり方が模範としたイギリスの議会のあり方と大きく異なっているとわかったので、日本の民主主義政治(民主政)を深めるために皆さまにもこの本を紹介したい。
 
 2016年発行の朝日新聞出版の本「政策会議と討論なき国会」(野中尚人、青木遥著)のサブタイトルは、「官邸主導体制の成立と後退する熟議」だ。
 序章「政策会議と討論-大きな変革期にある日本政治」から、抜き出してみる。
 以下小見出しと文章をそのまま引用する。なお、一部は省略する。
 
 眠れる最高意思決定機関
 201471日、臨時に開催された閣議で、ある重大な案件が決定された。集団自衛権の行使を可能とする方向での憲法解釈の変更である。(一文省略)しかし閣議はわずか23分間、事前に準備された閣議決定案が政務の世耕弘成官房副長官によって読み上げられ、続いて首相、外相、防衛相、国家公安委員長から簡単な補足説明がなされて決定となった。閣議の後の閣僚懇談会も含めて、討論らしきものは皆無、じつに粛々、淡々とした決定であった。
 
 およそ1年後、2015514日、再び臨時閣議が開催された。そして、集団自衛権の行使を含め、自衛隊の活動を質量ともに画期的に強化するための法律案が閣議決定された。ここでも状況は同じであった。閣議の時間は9分、すでに固められた決定事項が政務の加藤勝信官房副長官によって読み上げられ、数人の閣僚がごく短い補足説明を行い、それで決定となった。閣僚懇談会も含めて討論はどこにもない。
 
 これが日本の最高意思決定機関である閣議の実態である。直感的に違和感が拭えないのは当然であるが、他の先進民主主義国と比較しても確実に極端なパターンといえる。ここまでの重大な案件を討論零で決めてしまうのは、内閣の存在意義を根底から疑わせるものだからである。やや皮肉を込めて言えば、こうした閣議の極端な形骸化はいわゆる「55年体制」政治の構造化された特徴であり、その仕組みを完全に引きずったままである。本来、内閣は合議制、つまり全閣僚が十分に議論を尽くしたうえで連帯責任を負う決定をしなければならない。比較的軽微な報告や人事案件などルーティン的な決定ならばいざ知らず、重大な決定がここまで一切の討論なしで決めるのは、いったいどういうことなのか。国会に対する連帯責任の前に、そもそも国民に対する説明責任は果たされているといえるだろうか。
 (以下省略)
 
 進まない政策革新
 なぜこうした状況に陥っているかは後段で検討するが、ここでは最近の出来事に目を向けながら、少し違った側面について考えてみよう。その一つ、一見して不思議なことに、猛スピードで進められている政策転換がある一方で、一向に進まないものがある。財政再建がその代表選手であり、少子高齢化対策も挙げられる。
 
 まったくありがたくない話だが、日本の財政赤字の規模は世界でも最悪レベルで、EUIMFなどを巻き込んだ巨額の救済支援をめぐってあれだけ大変なことになったギリシャと比較しても、GDP比で見るとおよそ1.2倍にもなる。日本が輸出大国で競争力のある経済構造と巨額の民間貯蓄をあわせもっていることを考えれば、ギリシャと同じことが起こることは考えなくてよい。少なくとも短期的には。しかし、ここまで劣悪な財政状態がとても放置できるものではないことは、すべての政府要人が認めている。それにもかかわらず、事態はここ四半世紀の間、悪化し続けている。
 
 少子高齢化対策も似たような経過をたどったといえる。この問題に平均寿命の延びが関連しているのはむろんだが、本質は何といっても子供の数の減少である。そしてこの問題は、日本の政策決定パターンの一つの重大な特質を象徴的に示している。二、三十年後には、母親になる人数がほぼ確実に予測でき、人口の将来推計は非常に正確である。つまり、将来の人口減少は、実際にそれが始まるはるか以前に、ほとんど確実に予見されていたのである。ところが、これに対する政策的な対応の出遅れと弱々しさはほとんど信じられないほどで、お粗末そのものである。確実視された深刻な将来の危機に対して、政策対応は先送りされ続けたのである。
 
 財政再建や少子高齢化への対応がなされていないわけではない。むしろ、政府は懸命に取り組む姿勢を見せている。しかし率直にいって、掛け声ばかりが響いて事態は一向に改善していないかに思われる。これらの財政再建や少子高齢化への対応は、むろん難しい課題である。利益を配分するのではなく、共通の問題に対処するためにコストを分かち合うばかりでなく、現在の世代と将来世代との間の、いわば対話と交渉の成立しない条件下での政策判断がその本質にあるからである。だからこそ、こうした課題に立ち向かうためには社会全体を見渡した構想力のあるリーダーシップが不可欠となる。
 
 なかなか埋まらない1票の格差(以下省略)
 政権交代を経て政治は変わったか(以下省略)
 政策会議(以下省略)
 「隠れ蓑」の審議会と官僚主導(以下省略)
 政策会議と官邸主導・政治主導(以下省略)
官邸補佐機構の整備と「政策会議システム」への展開(以下省略)
 
討論と政治責任
こうした政治主導の組み立てや運営は、政治責任の所在を明確化するという可能性を持つ。そして、政治主導が政治責任のあり方と結びつくならば、民主主義の中での政治的リーダーシップのあり方に大きなインパクトをもたらすことになる。特に55年体制時代には、官僚主導、政官の過度の統合、自民党内の派閥政治などのため、政治責任の不明瞭さがつねに指摘されてきた。いったい誰がどのような権限と責任で、何を主張し、そして実行したのか。その理由は何だったのか。選挙から首相のイニシアティヴに至るまで、これがきわめてわかりにくかった。官邸主導が明確になることによって、政治責任のはっきりとしない、55年体制政治の状況に根本的な変化をもたらす可能性が生まれるかもしれないのである。
 
一般的にいえば、政治責任を明らかにするには政権交代が望ましい。あらゆる組織に共通するが、権力が続く局面では権力は腐敗する。忠実な後継者が本来必要な自己批判や修正を避けようとするのは、いわば人情というものであろう。しかし、政治という公的な営みにおいては、権力の独占はあってはならない。また、国家を支配する以上、その権力は恐ろしいほど巨大である。だからこそ、自由な批判こそが重要なのであり、それは政権交代をもたらす根本的な原動力となる。当然、こうした自由で民主的な競争を通じた政権交代は、政治責任を高める働きをする。
 
しかし本書では、政治責任についてもう一つの重要な見方を提示する。それは討論である。討論は自由な批判と競争を目に見える形にし、また国民に考えるための材料を提供する。また、トップのリーダーシップを健全な形で支え、強化するために決定的な意味を持っている。政権内、国会での与野党間、与党内部、そして国民を巻き込んだ選挙など、様々な段階でリーダーの提案が検討され、受容され、そして批判されるというプロセスが重要なのである。それらを通じて鍛え上げられることが真のリーダーシップにとって決定的な意味を持つのである。本書で扱う政治的な討論とは、公的なプロセスの中でどの程度そうしたチェックがなされているのかを検討するためのものである。
 
一言でいえば、強いリーダーシップには大きな政治責任が伴うのであり、その決断を実際に担保するのが政治的討論である。しかしこの面で、日本の抱える課題は相当に深刻である。閣議の形骸化に始まり、国会審議では討論はほぼ皆無であり、与党内部における非公式な話し合いや活動までが目立って弱体化しつつあるように思える。いったい、それはなぜなのか。そして、官邸主導の強化や政策会議システムの構築などと討論の弱体化はどのような関連があるのか。
 
政策会議システム・討論と日本政治の課題
政治主導の必要性が強く叫ばれるようになってすでに四半世紀が過ぎている。永遠に不可能かと思われたリーダーシップの強化は、今や「安倍一強政治」ともいわれるような状況として実現している。官邸主導は、とにかく一定の姿を見せているといってよい。
 
しかし、冒頭から指摘してきたように、依然として改革の進まない政策分野があちこちにあり、重要課題についての逼塞状況も見て取れる。他方で、安全保障政策をめぐる国会内外での紛糾や、それとは実に対照的なほど与党内での議論の弱々しさ、わが国の政策過程をめぐる情勢はまさに混沌としている。
 
今や官邸主導の重要なツールとなった「政策会議」は、こうした日本政治の全体的な変化の中でどのような役割を担っているのだろうか。それは55年体制時代の審議会政治、官僚主導と族議員による政治とどのように違うのだろうか、そして、政策会議のシステムが形成されたことによって、族議員と政調会を中心としていた伝統的な自民党政治や、政官仕組みにはどのような変化がもたらされようとしているのだろうか。
 
また他面、自民党政権の政府・与党二元体制や官僚依存体質を強く批判してきた民主党による政権交代は、大きな日本政治の流れの中でどのような位置を占め、いかなる意味を持ったのだろうか。少なくとも、自民党に比べれば討論を重視し、さまざまな統治機構改革を唱えた民主党の政権はなぜ大きな挫折を味わうことになったのか。政治主導を唱える上で自民党と歩調を合わせた公務員制度改革の方向性を持っていたにもかかわらず、どうしてそれを政権運営に生かすことができなかったのだろうか。
 
結局、官邸主導による政策会議のシステムがかなりの程度構築され首相のリーダーシップや政策推進のための条件は大きく前進してきた。55年体制時代とは大きく様変わりである。しかし同時に、国会の仕組みを中心とした多くの側面では、まったくの旧態依然といってよい状態が続いている。国会、与野党間関係などは、ほとんど変化していない。依然として、政策を討議し決定するためのルールや仕組みが確立されていないのである。これらの結果、強化されたリーダーシップと、相変わらず改革がなされていない国会を軸とする与野党間関係は、深刻なギャップを抱えることとなった。安保法務をめぐる国会の大混乱は、安倍政権がこうした国会の壁を強引に突破するという選択をしたことによって避けられないものとなった。しかし、こうした事態は本当に不可避だったのだろうか。
以下本書では、政策会議と討論の二つを鍵としながら、日本政治の構造変化について考える。(以下省略)
 
以上が本書全体の序論でした。日本の民主政の中心である、国会をはじめ、日本の県議会、市議会などでも、質疑はあるが、討論がない議会運営がなされています。本当にこのような議会運営で日本の民主政は深まるのでしょうか?私は、おお大いに疑問に思います。本来の議会運営とは?。イギリス政治との比較検討をしながら、続編をご紹介します。ご期待ください。

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