2017年8月3日木曜日

「関心を持て」と言われて政治に関心を持つ人はいない

<三鷹市議のブログより>

あるテーマひとつを取っても、立ち位置を変えてみたら、ハッと気づかされる何かがよくあるものです。発信者目線と受信者目線の違いについて考えてみましょう。今回は、「参加」についてです。
 
18歳選挙権解禁後、有権者教育の重要性が言われています。
「若い人に政治に関心を持ってもらうにはどうすべきか?」これは発信者目線です。
一方、受信者目線に立つとどうでしょうか。投票に行きましょうだの、議会に注目しましょうだの、駅頭などで叫んでいる議員さん「本人」ではなく、その議員さんを遠巻きに見ている「傍観者」の気持ちに立ってみましょう。これは実験です。
 
いかがですか?
そういう風景を遠巻きに見ながら、「ま、私には関係ないや」とか「いつも駅でギャーギャーうるさいな」とか思ってしまいませんか?少なくとも、私の実験結果はそうですね。
 
一方、あなたが例えばお子さんの保育園問題で悩んでいるとしたらどうでしょうか?政治の現状に不満を持ち、ひょっとしたら耳を傾けるかもしれませんね。
 
人は様々なステージで生きているのです。それらを一括りにして、政治に関心を持てだの、投票率アップだの言うことの方がどうかしているわけです。
 
この国に真の民主主義はありません。あるものは、税を取り使う権力者側、税を取られるのを我慢する納税者側という二極構造です。この構造からは、納税者側は常に「取られている」という不満が潜在化しているというのが私の考えです。
とはいえ、この不満が具体的になるには、不利益を被ることが大切な分岐点なのです。税を源泉徴収という形で取られている限り、取られているという自覚はさほどはないでしょう。その後、結婚して子どもができて保育園問題に直面し、初めて政治がおかしいとなり、投票という行動を通して「参加」しようという「動機付け」ができます。つまり、動機付けはあくまで当事者本人の事情でしかないというのは、大きなポイントなのです。人はお尻に火がつかないと動かないものです。
 
痛みを伴わないのに政治に関心持つわけがないのです。民主主義的契機を重視するからこそ関心を持てとなるが、関心持たずとも生活できるなら、それはそれで良いのではないでしょうか。「そんなの関係ねぇー」と言われたら、返す言葉がありませんよね。
 
つまり、政治に関心を持つかどうかは、個々人のステージによって違うのです。政治に関心がないのは当然の結論であることにまず政治家は気付く必要があります。さらに言えば、市民参加だの協働だの、実は全く同じ問題構造なのです。実は、民主主義は、強制の要素を含んでいるのではないか?とすら思えてくるのです。
 
以上を前提として、では議員としてどうすべきかというと、これは答えは簡単で、出来うる限りの情報を公開していくことしかありません。これは「責務」であり、そもそも「効果」を期待するものではありません。
議員としては淡々と情報公開の仕事をし、政治的効果については結果論として捉える、これが正解となります。
 
http://ameblo.jp/handanobuaki/entry-12297413460.html

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